夜空を飾る勇壮な手筒煙火

『我が国の花火の原点

  当地の偉大な文化遺産』

「豊川手筒まつり」で
あいさつする筆者

 

豊川商工会議所 会頭

鈴木一進

 

 

 “豊川手筒まつり”は、三河地方に古来から伝わる手筒煙火を、全国的な祭りに育て上げようと、
豊川商工会議所が中心となり、各町内連区長、煙火関係者、豊川市の全面協力も得て、昭和63年に
スタートさせた「市民祭り」である。毎年8月下旬に開催され、回を重ねる毎に各町内のノウハウ
の交流が図られ、一度の事故もなく、また、市民踊りも加わって、より楽しい祭りとなり、今や、
県内外から多くの観客を迎えることができるようになった。
 「手筒煙火」そのものは、東三河一帯で各町内連区に鎮座する神社の祭礼に奉納される厳粛な神
事である。火薬を竹筒に詰めた素朴な花火で、それぞれの古いしきたりや口伝にもとづいて、親子
代々の氏子達によって、秘伝とする独特の技術が引き継がれてきた。
 「手筒煙火」はこの地に残された偉大な文化遺産であると共に、我が国の花火の原点で、この地

が発祥の地であったということをとくに明記しておきたい。

 

「狼火」「煙火」「花火」
 轟音と共に夜空を華麗に飾る花火、日本の夜空を飾るだけでなく、今では世界の夜空を飾り、各
国の人々を称賛させるその技術は比類ないものとなっている。
 現在でも、火薬の価値は大きい。古来、軍事的機密性と取扱い上の危険性に加えて、素薬の開発
や調合は火薬の威力に係わり合うことから、取扱方法から使用効果に至るまで、すべてが厳しく規
制され、携わる人も限定されていた。このため、文書による伝承はなく、口伝によっての特定の人
への伝承しか許されなかった。花火についての古文書が少なく、その発祥の伝承がつまびらかでな
いのもそのためであろう。
 「花火」の名称が一般的に言われ始めたのは、17世紀中頃(1650年・慶安3年)と伝えられて
いる。火薬を調合工夫して連薬とし、竹筒に詰めて点火、発揚したところ、漆黒の夜に咲いた火の
花のようだったところから「花火」と言われるようになり、これを扱う人を花火師と呼ぶようにな
つたと云われる。
 それより以前は、彩り、輝きよりも煙が主であったことから「煙火」と言われた。「煙火」の出
現は13世紀の終わり頃、イタリアのフイレンツという化学者が手掛けたと云われ、15世紀の初め頃、
ヨーロッパ各地に拡がったと伝えられるが、その基薬が、硝石を使った火薬であった。
 日本でのこの形式状のものは、大化改新の頃、遣唐使によって中国から持ち帰られ、沿岸防備に
当たった“防人”の遠隔地間の通信用に使われた「狼火=のろし」に端を発していたと言われる。
この火薬の変遷こそが「花火」の歴史と言える。

勇壮な「手筒煙火」の放場


 「狼火」は、竹筒の底に付けられた火皿に、乾 燥した狼の糞を投入すると、独特の白い煙を発揚
し、気象条件が悪くても直線的に空中に上昇するので、遠隔地からでも遠望でき、その発揚の仕方
によって伝達内容を変えられるところから、当時としては優れた通信手段として使われた。
 この「狼火」は、その後、狼糞から硝土粉(寺社の床下の乾燥土から採取)へといろいろ改良さ
れ、山岳部だけでなく、平野丘陵部でも多用され始め、この頃から「野狼火=のろし」とも言われ
てきたと記録に残されている。
 日本に西洋火薬=硝石が伝えられたのは1530年代で、堺の商人から紀州の根来衆に渡り、それま
で使われていた“和薬”に代わって使われはじめ、さらに工夫が加えられて「狼火」から「煙火」と
呼ばれるようになったと言われている。
 西洋火薬の渡来は、ポルトガル人から鉄砲と火術(火薬使用術)が伝えられた1543年よりも10
年はど前のことだったと言われる。これが諸国の忍者群に伝わり、伊賀衆や甲賀衆によってさらに
改良されていったようだ。
 この火薬が実戦で鉄砲以外に使われた記録は、今川氏輝の指示を受けた甲賀衆が、武田信玄の父
信虎の陣所へ炬火を打ち込み、近隣の武将から注目されたと伝えられていることである。
1537年、今川氏輝が死去し義元が当主となったが、この頃から足利幕府に内紛が生じ、その影響
が各地に波及していった。
1547年頃から1560年頃、織田信秀(信長の父)が三河攻略を進め、守勢に立たされた松平広
忠と清康の父子は、幼かった竹千代を人質として今川義元に送り、助勢を頼んだ。
 そこで今川義元は、当時の牛久保(現在豊川市内)城主の牧野保成を味方にして、田原城(渥美
郡)・吉田城(豊橋市)・吉良城(幡豆郡)を拠点に、西三河の安城城や岡崎城と連係して、織田
軍と職烈な戦いを繰り広げていった。


「手筒煙火」のこと
1558年、牛久保城主で吉田城主でもあった牧野保成は、出陣に際して、吉田天王社と羽田八幡宮
(いずれも豊橋市内)、そして、陣途に当たった伊知田神社(豊川市内)に戦捷祈願を行った。そ
の奉礼として、それぞれの祭礼に「煙火」を試射奉納した。
 後の吉田天王社の煙火奉納は、三河鉄砲青年隊の工夫した煙火に町人氏子達が加わって盛大であ
ったと古老伝は記している。
 特に注目されることは、当時、今川義元の傘下に置かれていた松平家の家臣が、甲賀衆から受け
継いだ火薬の知識を、東三河の山麓(現在の豊川市周辺地域)でいろいろ工夫を凝らし成製に当た
っていたと伝えられていることである。

現在の手筒

 

1560年、今川義元は織田軍により桶狭間で西進上洛を阻止されたが、このとき無事に牛久保城に帰着するこ
とができた今川軍の先陣・牧野貞成は、この奉礼として、当時、平尾(豊川市内)に在住していたと伝えられる

大原肥前守知尚が自製工夫した火薬を使って、「流星」という「手筒煙火」を吉田天王社・羽田八幡宮・伊知田

神社にそれぞれ奉納発揚している。
 「羽田・吉田綜録」によると、花火の創始は、「永禄3年(1560年)大原肥前守知尚公花火をはじむ」とあり、

「その用いられしは流星手筒とす。
然れども、其大なる物なし。次いで、建物綱火など用いらるるも亦然り」と、三河煙火史はこのことを伝えている。
 また、当地では吉田神社略記と古老伝が古い文献とされているが、この古老伝にも「永禄3年、
天王社の祭礼、煙火と云事初る」と記されている。
 この年には、大原肥前守の家臣が、牧野貞成公の命を受けて、菟足神社(小坂井町)にも「手筒
煙火」を奉納しているようだ。
1561年(永禄4年)、信濃川中島では、武田信玄と上杉謙信が戦い、武田軍が、伊賀衆から武田
軒猿衆(忍者群)に伝えられた火薬を、甲府領内で産出される硫黄と硝石に加えて、発色性火薬を
開発し、これを従来の“野狼火”と組み合わせて使用し、上杉軍の動きを詳細に武田軍本陣に知ら
せ、また、戦術指示も行って、上杉軍を大いに悩ませている。
1574年(天正2年)、戦国の大乱も終焉近いこの年、織田信長の許にスペイン人の宣教師から新
しい西洋火薬がもたらされた。この火薬は硝石を基調にした強力な火薬で、これより従来から使わ
れていた鉄砲火術が著しく改良された。

これと併行して煙火も改良され、彩りも出せるようになり、“南蛮煙火”と言われるようになった。

放場を終えた手筒は厄除けとして
  玄関の軒先に飾られる。

 

 当時、信長は「火薬」を足軽や下級武士に取扱わせていたが、鉄砲の改良を優先させ、鉄砲を使った新しい戦略を編
み出したのである。
 その鉄砲戦術が一躍諸国の武将から注目されたのが、奥三河の長篠の戦いである。
 信長の軍団は、それまで優勢であった武田勝頼の率いる騎馬軍団を鉄砲で大破して、後の地歩を固めたのである。

一方、この長篠城の戦いで落城寸前の味方、奥平昌信に“援軍来たる”の煙火を揚げて城兵を勇気づけた鳥居強右衛門の

話もまた家康懸案の火薬の応用だった。
 信長の天下平定も目捷の感があった頃、1581年(天正9年)正月、信長は安土城大手門前の広場
で、正月の景気付けと武家衆の士気鼓舞のために、新しい火薬を使った煙火・炬火や筒火を発揚させ
たと記録にある。この時の煙火を除いた炬火や筒火の発揚の仕方は現在の手筒と似ていたようだ。

(安土城絵図による)


「家康の執念」
1585年(天正13年)秀吉が関白職に叙せられたのを機に、家康も臣礼をとったが、家康は、将
来自分が天下を襲続する機を窺い、家臣に命じ、秘かに甲賀衆を介在させて火薬の研究と火術の演
練を行わせていた。この家康の火薬に対する執念は1592年(天正20年)秀吉が朝鮮出兵の際に、
朝鮮軍勢が使った中国式火薬兵器の威力を痛感したために、鉄砲よりも火薬を自らが活用すること
に意を決し、これを実行したことに見られる。
 秀吉没後の1600年(慶長5年)9月15日、天下分け目の関ケ原の合戦で、家康率いる東軍は、
研究を重ねてきた強力な火薬を用いた鉄砲や大砲により勝利を収め、徳川時代の幕を開けたのである。
1601年(慶長6年)、家康は本拠を江戸に移したが、東西を結ぶ街道や要衝を吉田(現豊橋市)
と定め、これに伴って三河東部一帯を徳川直轄地と定めた。
1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開設して天下を統一した。こ
の時、家康は、三河東部には譜代の家臣を配置し、特に、火薬を極秘の重要扱いとし、全国から有数
の火術家を集約して、火薬及び弾丸の研究開発に専念させた。その地域が三河東部の山岳丘陵地であった。
1614年(慶長19年)2月、大阪冬の陣が始まった。この時、豊臣方の真田幸村が、家臣の壊飛

左助らの忍者集団に命じて、強力な火薬を使い“地雷飛龍火”や“火銅連火”を自由にこなし、家
康を悩ませている。
しかし、翌1615年(元和元年)7月、大阪夏の陣で豊臣家は崩壊した。この戦を通して火薬の重要
性を再認識した家康は、火術を研究する各流家の、三河東部からの脱出を禁止し、総括管理をするた
めに鉄砲方若年寄制度を創設して、稲富流三代日の稲富重兵衛を初代若年寄に任命した。同時に、
火薬の取扱いについて御留令を発布して、限られた優秀な青年武士を集め「三河鉄砲青年隊」を結
成させ、火薬の研究と開発、用法の演練を特命した。また、全国の諸藩大名には鉄砲と火薬の研究
を禁止する特命を発し、併せて厳重に監視させた。

 これらの青年隊士は、三河東部の丘陵地に分散し、極秘裏に新火薬の開発、研究、調合を行い、
豊川右岸の閑疎地で試発や試射をして威力を試していたようだ。また、幕府の許可を得て、この地
域の神社の祭礼の時に、その威容を誇り、景気付けをするために奉納という形で青年鉄砲隊士達に
ょって煙火、筒火を発揚させ、火薬の効果試験をさせていたのである。文書がないために、その歴
史がつまびらかでないのが残念だ。
1648年(慶安元年)、幕府は、再度、鉄砲や火薬、そして火術の取綿り管理を強化すると共に、
「三河鉄砲青年隊」の登用のために、青年隊出身の田村四郎兵衛と井上外記の両名を鉄砲方若年寄
に任命し、火薬の技術保護及び火薬の秘伝洩出の防止を一層厳重にした。火薬を取扱う人達は三河
東部に集約され、紀州・雑賀衆・伊賀衆・甲賀衆・真田忍者群・甲斐の乱破衆に対しても監視規
制を厳しくした。

 

「花火師のこと」

 この厳しさは、実験・試射・試揚のことにも及び、発揚も祭礼の場においてのみ認められるので、
青年隊士の中には自分達の技術を発表する場のないことを不満とする者が出始め、武士を捨てて、
「花火師」の道を選び始めた。後世に、鍵屋と呼ばれる花火師に転じ、町方衆となった一人に篠原
弥兵衛がいる。
 弥兵衛は研究火薬の試射役だった青年隊士の一人であったが、火薬をよく知っていたことが幸い
して、筒火煙火にいろいろと新しい工夫を加え、現在の世界一と云われる玉花火を創り出した。
1659年(帯治2年)鍵屋弥兵衛は、三河鉄砲青年隊の隊士が考案した“茸管詰火薬”を竹輪と云
われる筒を使って空中に打揚げることに成功した。

新しい工夫は、打揚げ用の火薬を別に使うことを考えて、さらに導火的火薬を付け加え、茸管に詰

められた火薬に、時差着点火することに成功したものと伝えれれている。

 このように、手筒煙火は三河鉄砲青年隊の火薬への研究と工夫を基礎として、大筒や建物飾煙火

(後の仕掛け花火)へと進展していく。

 三河鉄砲青年隊の火薬研究にさらに機会を与えたのが、三河の砂鉄精製技術であった。この精製

鉄粉を火薬に混入することにより、火薬をより強力にしたり、さらに、少量でその用途が多岐で

きるようになったことも、史実に記された”口伝移書き”によって明らかにされている。

 1659年は、地元豊川にとって手筒に新しい歴史をを刻んだとしでもあった。この年、豊川素盞嗚神社

(現在の進雄神社)では、夏の祭礼に新しい工夫の筒火を披露しようとそれまでの筒火に加えて、

建物状に構築した両側に長い麻綱を張り渡して、火薬を詰めた竹筒をこの綱に通して発火させ、

綱をはしらせる競技をしようとしたのである。これが現在、豊川市及び愛知県から文化財に指定され

ている”綱火”の始まりである。

 この綱火は、近隣の筒火に、より差をつけようとしたものらしく、この後、工夫が進み、遣火

(やりび)、逆火(さかび)、車火(くるまび)、行戻火(ゆきもどりび)、追綱火(おいつなび)

などの技巧、趣向が開発された記録があるが、現在では”綱火”だけが残っている。

 1691年(元禄4年)豊川の大洪水で菟足神社の大鳥居が流失したままになっていたのを、吉田城

主の小笠原佐渡守が再建奉献し、その際、手筒が盛大に奉納され、その後の盛況のきっかけとなり、

この後、昼日祭には煙火を打ち上げ、夜は筒火を発場し、さらに建物煙火を定例行事化し、現在に

伝承されている。

 

「仕掛・大筒煙火」のこと

 1700年(元禄13年)、吉田天王神社や菟足神社の祭礼への煙火奉納に新しい動きがでた。それま

で丸太柱を組んでこれに「変わり煙火」を仕組んでいたのが、丸太柱を建物式に組み、これに諸種

の調合火薬を組付けて発火させ、いろいろな形を表現し、参詣者の度肝を抜いたのである。

 これを建物煙火と呼ぶようになり、次第に火薬の発展を促し、硝石と硫黄に鉄粉、上質木炭粉、
さらに銀粉や燐から近年ではアルミニュウム粉までを混合調整し、きらびやかな発色彩色ができる
現代のような仕掛花火が形造られたのである。史実によれば、同じ頃、手持ち筒火も次第に大型化
され、手持ち筒も太く大きくなり、大型筒火への発展形態をたどっていった。
1711年(正徳元年)の吉田神社の夏の祭礼には、この大型化した筒を、神輿風の架台に組み、神前
に練り込み搬入し、十数人がかりで発揚させた。
 この大型化した筒火をやがて“大筒’’と呼ぶようになり、これが後に、現代的な豪華な“打上花火”
へと発展して行く基になったのである。
 「花火の、太古より用いられしは流星手筒とす。然れども其大なる物なし。次いで建物綱火など用いらる
るも亦然り。建物の巨大なりしは元禄13年にして、手筒の雄大となりしは正徳元年なり。当時これを
大筒という。後更に大なるものを製し、これを台上に緊縛して以て放つ。然りして、大筒の称、之
に移る…」三河煙火史にはこのように記されている。

大筒煙火の振込み



「隅田川川開き」のこと
1717年(享保2年)、八代将軍徳川吉宗は、江戸城下の治安と景気盛上げを図るため、特に命じ
て、隅田川水神祭に筒火や炬火を打揚げさせ、町民を驚かせ、また喜ばせた。これはこの年限りで
終わったが、1732年(享保17年)、吉宗は川施餓鬼や先祖の追善供養のためとして、鍵屋弥兵衛
に新工夫の火薬煙火の打揚げを命じた。
 鍵屋弥兵衛は、この時はじめて空中に高く打揚げる彩火式の花火を打揚げて人々を驚かせ、幕府
からも称賛されて面目をほどこしたと云う。
1813年(文化10年)に、鍵屋の弟子であった清吉が暖簾分けをして独立し、玉屋の屋号を名乗
り、両国隅田川の川開き花火大会で、師匠の鍵屋と共に新時代を築いた。この玉屋は、1844年(弘
化元年)不注意の失火で江戸所払いとなり、一代で終わってしまったが、球形状の花火は「玉屋」
の名で後世まで称えられ、その技術は優れていたと伝えられている。

「家康の遺産」のこと
 花火の原点で、三河東部から遠州西部の神社の祭礼にも残る「手筒煙火」は、古い歴史と伝統あ
る勇壮な青年連が誇る花火となっている。
 真夏の夜空に一瞬クッキリと吹き上げる火柱は、間もなくドンという轟音と共に儚く消えるが、そ
こには素朴な夏の詩情と余韻が残され、その勇壮さは人々の心を引きつける。点火して消滅するま
で、僅か数秒間のスリルではあるが、若者はその瞬間に男の度胸と意気を賭るのである。
 「手筒煙火」は、今日、火薬の保有と研究を命じた徳川家康がこの地に残した遺産である…と言
っても過言ではない。そして、豊川という三河東部の豊かな母なる川が、これを支え、これを育み、
花火という偉大な文化を開花させた「発祥の地」と言ってもよいのではないだろうか。
 歴史は、今蘇る。

刊行

豊川市民まつり協議会

豊川手筒まつり実行委員会 H14・8

豊川手筒煙火より