愛知県には三河万歳と尾張万歳とが有ります



この頁は愛知県内各地の万歳保存会等々のHPと資料を
引用させていただいております





国指定 重要無形民族文化財

西尾三河万歳保存会

安城三河万歳保存会
安城2

幸田三河万歳保存会

知多尾張万歳保存会
知多2



万歳関係ホ−ムペ−ジ
東海市

三河万歳全集(愛知便利)










三河万歳の由来

三河万歳の歴史は古く今の西尾市西の町のお釈迦様で有名な実相寺
から始まります。 実相寺の住職で森宗湛師に伺いますと、鎌倉時代の
中頃、丁度豪古が日本へ攻めて来た頃のことです、此の実相寺の開山、
応通禅師と言う方がありました。此の方が遠く中国へ禅の勉強の為に
留学されたことが有りまた、此の留学時代に禅師は随の煬帝が作られた
万歳楽を覚えて帰国したことに始まります。                  
たまたま南宗の官吏陳照答谷と言う中国人が宗元の争いで日本へ亡命して
応通禅師を頼り保護を願いました、応通禅師はかねて習い覚えたこ万歳楽の
曲に、日本に仏教が広まるようにと布教のための言葉をつけ之を人々に
知らせようと万歳を教へ生活のかてとさせたのが万歳の始まりだと実相寺の
瑞境山の伝記に印されております。その後此の三河地方も戦乱の巷と化して
陳照答谷の子孫も各地に逃げ迷い最後にこの西尾市に帰着した者と
安城市に帰着した者と二つあると記されて居ります、此の三河万歳は郷土
出身の徳川家康公の手厚い保護を受けたので今日まで続いてきたものです。
その理由は此の実相寺の3代目住職雪済長老と言う人が今川義基のもとに
人質にされていた幼い頃の徳川家康公に学問をほどこしたことから家康と
実相寺、実相寺と三河万歳と言う緊密な関係が生れた事でわかります。
こんな事で三河万歳は特に江戸時代幕府幕府から目をかけられ御殿は勿論
関八州の春の祈祷を特別に許可されました、この事により三河万歳は各地
各家を訪問してもあやしまれないようになり幕府は彼等を隠密として各地
大名の密偵をさせたと伝えられる、江戸時代は三河万歳の最盛期であり、
色々な書物に三河万歳の様子が書かれて居ります、当時何分にも権現様
の背景が強く濃く気品が高く1年の暮れから正月にかけて江戸へ参り大奥
に仕候し国家安穏五穀豊穣息災延命を祈り寿ぎ千歳楽万歳楽を演じた
其の万歳師の一行は道中新居、箱根の関所等々天下御免で道中切手は
要らず通行が出来た、又三河万歳にに就いて江戸時代の中期、今から
180年前、国学者荻生狙来、太田南畝(蜀山人)の手により現在唄われて
居る歌詞に要約されたと此の古い歴史をもつ三河万歳先輩の皆様に依り
今日に引き継がれ育て上げられてきたと言えます。              

       大正11年11月16日  愛知県三河国額田郡幸田町  七福会 より引用





タウン情報 あいち 1997.1.1 号から引用させていただきました









尾 張 万 歳
知多市教育委員会発行 
重要無形民族文化財 尾張万歳より引用させていただきました


平成18年4月15日付 中日新聞 切り抜き

















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